著作権法の基礎

1.著作権法の基本構造

 著作権法というのは、基本的には単純な法律です。ただ、複数の種類の法制度が1つの法律にまとめられているので、少しわかりにくくなっているだけです。

 文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属する新たな作品(これを「著作物」といいます。)を創作した人(これを「著作者」といいます。)に、その所定の方法での公衆への提示・提供をコントロールする権利を認めて、投下資本回収の機会を付与します。このコントロール権こそが「著作権」といわれるものです。例えば、詩人は、自分が作った詩について、これが公衆に向けて朗読されたり、その朗読が放送されたり、ネット上にアップロードされたり、あるいは、その詩が収録された詩集が公衆に譲渡されるのを禁止する権限が与えられているのです。

 とはいえ、著作物の公衆への提供行為を押さえるのは大変です。そこで法は、その予備的行為であるコピー(複製物)の作成行為をコントロールする権利も著作者に与えています。先ほどの例でいれば、その詩を収録した詩集を印刷する行為自体を、詩人は禁止することができるのです。

 著作権法は、これとは別に、情報を広く流布するのに、その才能や設備投資をつぎ込んだ人々の一部にも特権を与えています。この特権を「著作隣接権」といいます。例えば、著作物を演じたり、演奏したり、歌唱したりしてその著作物を広く公衆に流布させるには、古来そういうの才能が必要でした。また、音をレコード等の媒体に記録してそのコピーをたくさん作って公衆に頒布したり、音や映像を広く公衆に放送したりするのには、古来、巨額の投資を要する設備が必要だったのです。そこで、著作権法は、歌手や俳優等の実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者に対し、それらの者が行った情報流布手段をそのまま利用した情報流布をコントロールする権限を与えたのです。

 著作権や著作隣接権は、その作品やその情報を自由に流通させまたは利用する妨げとなるという意味で、第三者からは法的な規制ということになります。しかも、そこで規制される行動は、表現行為や情報の送受信行為等、表現の自由の根幹をなすものです。どうしてそのような自由を制約する権限を、著作者等の私人に与えることが許されるのでしょうか。この点に関しては、複数の考え方があります。私は、以下のように考えています。

 書籍やレコード等の情報財について、誰もがその生産に参加できるということになると、その価格は、「物」としての生産コスト及び流通コストに見合うラインまで引き下げられることになります。そうすると、新たに作品を作ったり、これを演じたり、あるいは音を収録したりして情報を形にするのに一定のコストを支払った人に金銭的な報酬を与える余裕が、情報財の生産者になくなってしまいます。著作者等に報酬を与えて情報財の生産コストを引き上げた生産者とそうでない生産者と市場で競争した場合、前者は価格競争において敗れる可能性が高まるからです。

 しかし、作品を創作したり情報を形にしたりしても報酬が見込めないということになると、作品を創作したりするのに、相応の時間やコストをかけることが難しくなります。すると、そこでは「プロ」が育ちにくくなります。作品のレベルや情報の質を向上させたいのであれば、プロを育てていく必要がありますし、そのためには情報財の流通に関しては、市場原理に委ねるのではなく、プロに相応の報酬を支払うことを約束した企業のみが、そのプロが創作した作品、形にした情報について、情報財を市場に置くことができるとするのが合理的です。

 その場合、その作品等を用いた情報財は誰でも生産し流通に置くことが許されるが、これを生産し流通に置く場合にはその創作者等に然るべき報酬を支払う義務を負わせるという法制度を採用することが可能です。また、その作品等を創作等した者から許諾を受けた者のみが、その作品等を用いた情報財を生産し流通に置くことができるものとし、それ以外の者がその作品等を用いた情報財を生産し流通に置くことを禁止するという法制度を採用することも可能です。 前者の場合、作品自体の市場競争力にかかわらず一律の報酬額を(国が)設定することになりますので、競争力の高い作品の創作者からすると、不利な価格設定を強いられることになります。 他方、後者の場合、同ジャンルの作品との間の市場競争により創作者報酬が低下させられることを回避できませんので、同ジャンルの作品との競争に打ち勝てる「質」を有する作品でなければ、却って創作者に支払われる報酬を引き下げることにもなりかねません。

 どちらの制度も一長一短があるのですが、現行の著作権法は、後者の法制度をベースに、前者の法制度を一部取り入れるという折衷方式を採用しています。